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2017年03月13日 Life Style

家康の脱出経路だった甲州街道 -EDO Survive Special-

おはようございます!街道研究家の永田です。
現在甲州街道は、日本橋から下諏訪(長野県)とされていますが、初期の甲州街道の到達地は甲府でした。一説では江戸の出発点は日本橋ではなく、半蔵門と言われています。五街道で唯一江戸城に直結している甲州街道、実は江戸有事の際の避難経路だったと言われています。

今日はそんな甲州街道の秘密を探ってみようと思います。

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甲府って何? – What’s Kofu? –

まず、そもそもですが甲府ってどんな街でしょう?

甲府の立地と由来

甲府市は東京から西へ約130km程の山間の盆地にある人口約19.4万人の街です。山梨なので僕は雪が降って寒いイメージを持っていましが、実際に地図を見てびっくりしました。甲府駅辺りは日本橋より少し南なんですね・・・

甲府までは電車で2~3時間くらいで行けてしまう距離ですが、かつて江戸の時代は3日ほどかかったそうです。さかのぼる戦国時代には武田氏がこの地を本拠地とし、地名は「甲斐国の府中」から、頭文字の「甲」と政治の中心の意味を持つ「府」をとり「甲府」と名付けられました。今でも武田氏を祀る武田神社は甲府市の観光名所として人気があります。

ゆかりの武将

武田氏が滅亡した後に、織田信長の家臣である河尻秀隆が甲府を統治しました。後に、豊臣秀吉、徳川家康と、時の権力者たちが、軍事的に重要な地域である甲府を統治すようになります。

甲府城の築城主は誰か?という話には諸説ありますが、その中に家康説があります(江戸後期編纂『甲斐国志』)。甲斐国志には、築城は江戸幕府が起こる前の天正13年(1585年)と書かれています。この資料から考えると、家康は秀吉がまだ生きていた頃から、軍事的に重要な拠点として甲府に目を付けていたことがわかります。

江戸の防衛 – EDO Defense System –

現在、世界的に有名な日本のシステムはカイゼンですが、今考えても凄いシステムが江戸時代にも沢山ありました。例えば、エコフレンドリーな江戸の循環システムや寺子屋などです。

もちろん家康自身も江戸の町を安全に統治するために様々なシステムを構築しました。町並みを風水に基づいた設計にすることで、外敵が進入しにくくなった話は有名ですよね。

また、大名を3つにグルーピングした藩制度は絶妙で、長く安定した江戸時代を運営するための基礎となりました。

藩の役割

親藩

家康の男系子孫が継承する藩(例外として鷹司松平家)で重要な拠点を統治

譜代

関ヶ原の戦い以前から、徳川氏に臣従していた大名や、その家臣が大名になって役職に就く

外様

関ヶ原の戦い後、徳川氏に臣従した大名で、なるべく江戸から遠い地域へ追いやられ辛い待遇を受ける

そんな用心深い家康により軍事的重要な甲府は、基本的に幕府直轄領、やがて親藩によって統治されることとなります。

江戸脱出! – Get Out Of EDO –

さて、いよいよ甲府街道の脱出経路についてみていこうと思います。

江戸に攻め入ろう(倒幕)と考える藩は、可能性的に外様藩が高いですよね。その為に家康は様々な仕掛けをしています。

謀反との距離

まず物理的な距離です。幕末で活躍した薩長は江戸からメチャメチャ遠いし倒幕の主たる舞台は京都でした。車も新幹線も無い時代、騒乱の舞台が江戸であったら少し状況も違っていたかもしれませんね。

敢えて難所を置く

街道には大井川をはじめとして戦略的にあえて橋を架けなかった川がいくつかあります。謀反を起こそうとした藩が簡単に江戸へ進入出来ないようにするためです。街道のシステムについては『東海道53次って何?歴史・文化を学べば旅行が10倍楽しくなる』で解説しています。

もしもの時も安心

それでも勢い衰えずに江戸を目指す藩があれば、それは江戸有事に他なりません。
甲州街道脱出経路

強固な防衛網をもってして戦うという選択肢もありますが、いよいよ脱出しなければならない時に甲州街道の出番がきます。

甲州街道脱出経路
江戸有事の際、服部半蔵の手引きで甲府へと脱出することが最終防衛で、そのため甲州街道は江戸城(半蔵門)に直結して作られていました。

甲州街道脱出経路
西へ逃げる道中、内藤新宿(今の百人町あたり)で鉄砲百人組、さらには八王子で千人同心と合流して追手を迎撃する体制を整えます。

百人町鉄炮隊

徳川家康に終始仕え、数々の功績をあげた家臣に、服部半蔵正成という伊賀上野出身の武将がいました。その半蔵正成を頭領とする伊賀者の中の鉄炮百人同心が、内藤修理亮清成に預けられ、天正十八年(一五九〇)、家康が武蔵国「江戸」入国の直前、鉄炮組は内藤氏に従って江戸にむかいました。内藤氏は家康の入国前に、武田(甲州)、北条(小田原)などの残党、野武士、浪人達が乱を起こすのを未然に防ぐため、甲州街道と旧鎌倉街道との交差する所(現新宿伊勢丹周辺)に、鉄炮組を布陣駐屯させ、その一帯の調査と警備をさせました。
引用:新宿百人町 明るい会商店街

千人同心

(家康公は)江戸で長柄の槍を持つ中間を武州八王子で新規に五百人ばかり採用され、甲州の下級武士を首領とした。その理由は、八王子は武蔵と甲斐の境界なので、有事の際には小仏峠方面を守備させようとお考えになったからである。
同心どもは常々甲斐国の郡内へ往復して、絹や綿の類を始めとして甲斐の産物の行商を行い、江戸で売り歩くことを平常時の仕事にするようになされたのだ。
引用:wikipedia

幕末、このような土壌があり、千人同心は新選組登場へ大きく影響します。

甲州街道密林の闇討ち
正直、鉄砲100人とか、1000人とかに山中で待ち構えられたら行軍もままならなさそうですよね。絵にしてみると行軍はかなり大変そうなのがわかります。

甲州街道脱出経路
そうこうしているうちに甲府へ到着し、親藩の協力を経て体制を整え・・・

甲州街道脱出経路
さらに川(富士川)を下って駿河城を目指し、反撃の機を伺うというのがこの甲州街道逃避路の全貌でした。

駿河城は家康が大御所になり、最後の地として選んだ場所です。何故その地を選んだかは『江戸から京都へ、徳川家康ゆかりの地を辿って家康のことをまとめてみた』に書きましたのでこちらも是非ご覧ください。

甲州街道を参勤交代で通る藩は信濃高遠藩、高島藩、飯田藩の3藩のみでした。それ以外の藩は中山道を利用していたようです。下諏訪宿から江戸までは甲州街道の方が距離は短いですが、とにかく道が険しく大変だったことが理由としてあげられています。そんな難所続きの甲州街道、その険しい道には江戸有事の軍事的秘密が隠されていたのでした。

今日のまとめ

家康の脱出経路だった甲州街道、いかがでしたでしょうか?

徳川家康はこのように、様々な危機回避の方法を考え、江戸幕府が継続するためのシステムを構築しました。近代から現代において日本の発展に大きく影響をもたらした街道整備・水道整備、利根川大工事などのインフラ構築は家康の偉業の中でも特に注目する部分では無いでしょうか?

約260年続いた太平の時代、江戸。もし、江戸幕府をひとつの企業と考えたのであれば、これだけの大規模な組織を何世紀も跨ぎ継続させた徳川家康は、経営者としても空前絶後の大天才だったのではないか?と思えます。

江戸の太平は、徳川家康の混乱した戦国での苦しい原体験があり、平和を心から望む想いがあったらこそ成しえた偉業では無いかと僕は思います。

甲州街道 JOG TRIP -EDO Survive編- 次回はいよいよ後半戦突入です。

それではまた。

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