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東海道53次についてイメージ
2015年09月04日 そうだ!京都へ行こう

東海道53次って何?歴史・文化を学べば旅行が10倍楽しくなる

8月後半は冷たい雨空が続いてましたが、ようやくお日様を拝むことが出来るようになりましたね。おはようございます。ジョグライターの永田です。

東海道53次風味も箱根峠を越えてちょっと一息
ここまで来て、ちょっと待って『風味』って一体何?そう思われた方もいるのではないでしょうか?実は何を隠そう僕は東海道53次には全く興味が無かったのです。

この道はどこまで続いているのだろう?
幕末の志士たちはどのような気持ちで上方へ上って行ったのだろう?

ただこれだけの興味から京都まで走ろうと決意しました。

本当に、たまたま品川の旧東海道を走ったときに53次を意識するようになりました。なんだろうこの道?って感じです。それまでは国道一号線のことを東海道だと思っていました。

品川宿については『常識は最適化されたルーチンワーク!』を是非ご覧ください。
この時、ブログの解りやすいタイトルとして、はじめて東海道53次というキーワードが出て来ました。

でもね、僕も走っているうちに東海道53次について随分と詳しくなって来たんです。ここで僕がこのプロジェクトで得た知識をみなさんと共有出来ればこれ幸いです。

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そもそも東海道53次って何?

今更感が満載なのですがまずはここからですよね。
東海道53次とは江戸時代、徳川家康によって整備された五街道のうちのひとつ、東海道にある53の宿街のことを指します。東海道は日本橋から京都まで続く街道で、徳川家康ゆかりの地が数多くあり、長く走っていると家康の偉大さが良くわかります。どこに行っても家康の功績が称えられているのです。今年がたまたま生誕400周年だからかもしれませんが・・・

実際53の宿場町を掲載した簡易MAPを作りました!
東海道53次宿場町MAP
宿場の多さや、京都への道筋を知る目安にしていただけたら幸いです。
いやぁ~、こうやって見ると長い。本当に京都へ行けるのでしょうか(@_@;)

それで宿場街ってどうなってるの?

東海道の全体像はわかって来ました。次に宿街の中ってどうなってるのでしょう?
実際に調べたり走ってみてわかったことは、どこの宿街も同じ要素が含まれているということです。宿場・本陣・旅籠・見附・高札場など、これらがセットになって一つの宿街を構成していました。

走っていて感じたのですが、多くの宿街で旧東海道を偲んで歩ける解りやすいMAPを用意してくれていました。それを頼りにいろいろ見てまわることが出来て非常に助かりました。
東海道品川宿まち歩きマップ
(品川宿 案内板)

実際に、このMAPを見て旧東海道なるものがあると気付き、53次のキーワードが出て来ました。
では、先ほどご紹介した宿場の要素それぞれを細かく見ていきましょう。

宿場(しゅくば)

街道の拠点で、江戸時代に街道が整備されるとともに発展した集落です。言葉自体は平安時代の末期から使われていたそうです。
蒲原宿 旧宿街の街並み
(写真:蒲原宿 旧宿街の街並み)

本陣(ほんじん)

大名など、身分の高い人たちが泊った宿で宿場のランドマーク的存在です。今でも大事に当時の本陣の様子を残して観光資源にしている宿街も沢山見かけました。
二川宿本陣
(写真:二川宿本陣)

旅籠(はたご)

普通の人が宿泊する、今でいう旅館みたいな所でしょうか?
新居宿 紀伊国屋
(写真:新居宿 紀伊国屋)

見附(みつけ)

見附には上方見附(西)と江戸見附(東)と2つあり、宿場町の東西の出入り口になっていました。
大磯宿 上方見附跡
(写真:大磯宿 上方見附跡)

高札場(こうさつば)

禁制や法度など、幕府のお触書を掲示した場所です。
袋井宿 高札場
(写真:袋井宿 高札場)

街をテンプレート化させて移動する人に必要最低限提供できるような仕組みが出来ていたとは徳川政権やはり恐れ多いです m(__)m

宿場と宿場の間って?昔だし山賊や追剥天国の無法地帯だったの?

宿場はしっかり整備されているのが良くわかりましたね。では、宿場と宿場の間ってどうなっていたんでしょう?江戸時代当時だからかなりざっくりした整備だったのでしょうか?

関所(せきしょ)

交通の要所に設置された検問施設です。一般に通行手形を提示し通行していました。
江戸時代は藩を越えれば外国のようなものでしたので、今でいう『入国管理局にパスポートを見せる』ような感覚だったのでしょうかね?もう一点特筆すべきは、女性と鉄砲の通行が厳しい制限を受けていました。参勤交代の大名の妻が無断で帰藩すること、江戸方面への鉄砲の持ち込みの2つが、幕府によって厳しくに規制されていました。(入鉄炮出女)
新居関所・関所資料館
(写真:新居関所・関所資料館)

川越(かわごし)

江戸時代は橋をかけて自由に行き来することが出来ない川もありました。そのため人力、つまり船を使って川を渡っていました。
静岡県安倍川
(写真:静岡県安倍川)

一里塚(いちりづか)

日本橋を起点に一里(3.9キロメートル)毎に目印になる塚を作りました。そこに木を植えて旅人が休むことが出来るようになっていました。
来迎寺一里塚
(写真:来迎寺一里塚)

並木道(なみきみち)

所々で見かける並木道、そのほとんどが松の木の印象を受けました。夏場の暑い中の移動では本当に助かりました。調べてみたらやはり、徳川幕府が冬の寒さ対策、夏の暑さ対策に並木道を作ったようです。
天然記念物 御油の松並木
(写真:天然記念物 御油の松並木)

こうして見ると、関所、川越、など簡単に移動できないようにして、徳川幕府に謀反を起こすことが出来ない仕組みをインフラごと構築していたことが良くわかります。一方で並木道や一里塚など旅人を思いやる仕組みも作り、徳川政権は飴と鞭を非常にうまく使い分けた政権だったんだなぁと走ってみて気が付きました。

今日のまとめ

東海道53次について、いかがでしたでしょうか?
歴史や文化は非常に面白く知識が増えてくると、例えばただの石ころを見ただけでもその石の馴れ初めに思いを馳せることが出来るんですよね。つまり目の前の風景に時間(時代)という奥行をつけることが出来るのです。知識と体験がリンクしたときさらに味わい深い旅を送ることが出来るのだと思います。
僕の東海道は逆で、好奇心→体験が先行してしまいましたが、無事知識とリンクし始めてこのジョグレポートがますます面白くなってきています。このイベントが終わったら53次談義のイベントなども開催したいと思います。

次回からいよいよ静岡編突入!!お楽しみに(^^)

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